「応天の門」の時代背景に迫ってみたいと思います。大まかな事件や登場人物の年齢を頭に入れておくと、物語をより深く楽しめますよ!
「応天の門」の魅力
時は平安、貴族文化の華ひらいた時代。超優秀ながらひきこもり学生の菅原道真と、都で数々の浮名を流す艶男・在原業平の間に、不思議な交流が生まれるところから、「応天の門」の物語は始まります。
2013年10月から「月刊コミックバンチ」に連載中の、漫画家・灰原薬の新感覚ミステリー漫画です。平安時代の魑魅魍魎が跋扈していた世界観を、そして人の世の哀しみを、流麗なタッチで描き出しています。

歴史ものではなじみの薄い平安時代ですが、唐渡来の文化と日本独自の大和文化が交わっていく、そんな時代の物語です。漢文化を学ぶ道真と、大和文化の和歌を得意とする業平が、権謀渦巻く京の怪異を解き明かしていきます。
平安時代は794年に京に都が開かれ、1192年に鎌倉幕府が開かれるまでを言います。律令国家であった奈良時代と、武士が支配するようになる鎌倉時代、ちょうど古代と中世の狭間に、華やかな大和文化が花開いた時代です。
中央政界では特定の権門が繁栄を極め、天皇の外戚である摂関家が政治を掌握していく、ちょうどその狭間の時代が、漫画「応天の門」の時代背景です。道真が生まれたのが845年、業平は825年生まれですから、二人はちょうど20歳の歳の差があります。
第1巻では、道真は大学寮の文章生となっていますね。彼が文章生になったのは18歳の時、862年です。その年、業平は従五位上に叙せられ左近衛権少将と武官を務めています。二人が出会ったのが、ちょうどこの頃の863年あたりという想定でしょうか。業平は39歳、当時で言えば中年に差し掛かろうという、渋みを帯び始めた頃合いです(笑)。



平安時代とは?
平安時代は大きく分けて3つに分かれます。
・天皇親政時代
・摂関時代
・院政と武士の台頭
それはそれぞれの支配形態の違いであり、次の支配形態へのステップとなっていくものでした。ここでは「応天の門」の背景となった時代をご案内します。
「応天の門」の時代背景
天皇親政時代から藤原氏による摂関政治へ
奈良の平城京から長岡京、そしてわずか10年で平安京へと遷都を繰り返したのは桓武天皇(天智天皇系)ですが、その理由としては奈良の仏教勢力の力を削ぎたかったこと、自分とは異なる天武天皇系の排除、そして物流と水問題の解決が目的だったと言われています。
ですが、長岡京から平安京への遷都は、藤原種次の暗殺事件に関わっていたとして皇太子を廃嫡された早良親王の怨霊による祟りを怖れたためだと言われています。桓武天皇の近親者が相次いで亡くなり、飢饉や疫病が相次いで起きたことから、早良親王の怨霊から逃れるため平安遷都が行われたのです。

怨霊を封じ込めるという考えで、唐から入ってきた陰陽道に則った都市計画で作られたのが、平安京なのです。当時の人々がいかに怨霊を怖れていたか、そしてその存在を信じていたかが分かりますね。そんな時代に漫画「応天の門」の菅原道真は、真っ向から否定し理知で解明する姿勢を貫いています。
桓武天皇の崩御後、近親婚の弊害を避けるため皇子らは順番に皇位につくこととなり、桓武天皇の次代の平城天皇は積極的な改革を遂行しました。平城天皇は弟の嵯峨天皇に譲位した後も執政権を掌握し続けようとしましたが、それに対抗する嵯峨天皇との間に対立が深まることとなり、810年の「薬子の変」により嵯峨天皇側が勝利しました。
嵯峨天皇治世初期は、太政官筆頭だった藤原園人(藤原北家)が律令制維持の方針で、百姓撫民(貧民救済)そして権門(有力貴族・寺社)抑制の政策がとられました。しかし、園人の後に政権を握った藤原冬嗣は、一変して権門による墾田開発の促進へと政策を切り替えます。ここから藤原北家の台頭が始まります。
冬嗣の子、藤原良房も冬嗣の路線を継承し墾田開発を促進、そして政治権力の藤原北家への集中化も進めていきます。そうした中で866年、「応天門の変」が起きました。この事件によって古くからの名族であった伴家や紀家が没落、藤原氏による他氏排斥のひとつとなった事件です。藤原北家は天皇の外戚となり、権力を集中させていきます。清和天皇の外祖父であった藤原良房は、皇族以外で初めて摂政となり、良房の養子、藤原基経も良房路線を継承し朝廷の実権を握りました。

887年に即位した宇多天皇は、基経が亡くなると天皇主導の政治を展開するように方向を転換、宇多天皇は権門抑制策そして小農民保護策を進めていきました。この宇多天皇のもとでは藤原時平(左大臣)と菅原道真(右大臣)の両者が太政官筆頭に立ち、協力しながら宇多天皇を補佐していたましたが、宇多天皇が醍醐天皇に譲位すると、にわかに時平・道真の対立が深まり、道真が失脚することとなりました。
漫画「応天の門」の時代背景がちょうどこの頃、藤原権門の中でも北家が権力の一極化を推し進めていった時代です。

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「応天の門」の主な年表
794年 | 平安京遷都 | |
810年 | 薬子の変 平城上皇失脚 | |
842年 | 承和の変 藤原良房・大納言に昇進 | |
846年 | 善愷訴訟事件 伴善男 弾劾事件を起こし昇進の足掛かりをつかむ | |
850年 | 藤原明子入内 | |
惟仁親王(後の清和天皇)生まれる | ||
851年 | 惟仁親王 立太子 | |
854年 | 藤原良房 左大臣に昇進 | |
858年 | 清和天皇 即位 | |
藤原良房、人臣初の摂政となる(摂関政治の始まり)この後一旦摂政は返上 | ||
859年 | 恬子内親王 第31代伊勢斎宮となる(11歳) 876年まで在位 | |
863年 | 【応天の門】物語始まる | 1話~ |
864年 | 清和天皇 元服(14歳)(1月6日) | |
伴善男 大納言に昇進(1月16日) | ||
藤原多美子 清和天皇に入内(12歳)(1月27日 女御となる) | 34話~39話(7巻) | |
貞観大噴火(7月) | 65話~68話(13巻) | |
藤原良房 大病を患い政務を退く | 77話(14巻) | |
866年 | 応天門の変(4月28日)伴善男失脚 | |
藤原良房、再び摂政となる(8月19日) | ||
藤原高子 清和天皇に入内(25歳) | ||
867年 | 藤原高子 女御となる | |
869年 | 藤原高子 貞明親王(後の陽成天皇)を出産 | |
869年 | 貞観地震 | |
872年 | 摂政・藤原良房 薨去(69歳) | |
876年 | 陽成天皇 即位(9歳) | |
880年 | 清和上皇 薨去 | |
藤原基経 関白となる | ||
在原業平 死去(56歳) | ||
883年 | 源益・宮中殺人事件 | |
884年 | 陽成天皇 退位 | |
光孝天皇 即位(55歳) | ||
886年 | 藤原多美子 薨去 | |
887年 | 宇多天皇 即位(20歳) 光孝天皇の皇子 | |
887年 | 阿衡事件 宇多天皇と藤原良房の不和 橘広相 失脚 | |
891年 | 藤原基経 薨去 | |
894年 | 遣唐使廃止 | |
897年 | 醍醐天皇 即位(12歳) | |
899年 | 藤原時平 左大臣となり、菅原道真 右大臣となる | |
901年 | 昌泰の変 時平の讒言により道真大宰府へ流罪 | |
903年 | 藤原道真 薨去(58歳) | |
910年 | 藤原高子 崩御(68歳) |
薬子の変 藤原式家と北家の権力交代
「応天の門」で権力を一気に掌握していく藤原氏は、中臣鎌足が藤原姓をもらったことから始まります。そして鎌足の後継者が息子の藤原不比等です。不比等は多くの子供を儲けましたが、そのうちの4人の息子が、「藤原四家」と呼ばれる人たちです。
・藤原南家 藤原武智麻呂(むちまろ)
・藤原北家 藤原房前(ふささき)
・藤原式家 藤原宇合(うまかい)
・藤原京家 藤原麻呂(まろ)
重要なのは北家と式家ですが、式家の藤原種継の娘が藤原薬子。彼女は夫ある身でしたが、幼少の長女が皇太子安殿親王(後の平城天皇)に入内すると、娘を差し置いて自身が安殿親王と深い関係となったという、傾城の美女?
平城天皇が病に罹り、それが叔父早良親王や伊予親王の祟りによるものと考えた天皇は、禍を避けるために譲位を決意します。天皇の寵愛を受けて専横を極めていた尚侍・藤原薬子とその兄の参議・藤原仲成は猛反対しましたが、天皇の意思は強く、嵯峨天皇へと譲位されました。
上皇となった平城上皇は旧都・平城京へと移り、やがて政策の行き違いから平城上皇と嵯峨天皇の軋轢が生まれ、二所朝廷と言われる対立が起こります。平城上皇の復位をもくろむ薬子と仲成は、この対立を大いに助長しました。そして突然の平城上皇による平城京への遷都宣言。
嵯峨天皇は遷都を拒否することを決断、平城上皇は東国で挙兵しようとします。坂上田村麻呂・藤原冬嗣らを迅速に動かした嵯峨天皇が鎮圧に成功し、平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家、薬子は毒を仰いで自殺、藤原仲成は処罰されました。
こうして仲成と薬子の実家である藤原式家は没落し、この時征伐に出た藤原冬嗣が、藤原北家の人であり、同家の隆盛の始まりともなった人です。まさに「薬子の変」は、藤原一門の式家と北家の立場を入れ替える事件だったのです。
応天門の変 伴家失脚と藤原北家の権力完全掌握
866年4月28日、応天門が放火され炎上する事件が起き、天皇の大内裏に近い火事だったため、朝廷は大騒ぎとなりました。ほどなく、伴善男は右大臣・藤原良相に対して左大臣・源信が犯人であると告発します。応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、源信が伴氏を呪って火をつけたのだと讒言したのです。
右大臣・藤原良相は源信の捕縛を命じて兵を出し邸を包囲しますが、参議・藤原基経がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護しました。源信と、良房の正妻・源潔姫は異母兄弟なんですね。源信は無実とされ、邸を包囲していた兵は引き上げました。
8月3日に備中権史生・大宅鷹取が、応天門放火の犯人は伴善男・伴中庸親子であると訴え出たことで、事件は急展開します。伴善男は無罪を主張しますが、応天門の加持とは別に操作されていた鷹取の娘の殺害事件で、善男の従僕・生江恒山と伴清縄が調査され、その過程で鷹取の件のみならず応天門の放火についても彼らが自供を始めました。
そのため、一度は誣告と判断されかけた伴善男父子に対する放火容疑が再び浮上し、否定を続ける善男に対し「伴中庸が自白した」と偽りを言って自白を迫ったところ、善男は観念して自白したということです。首謀者として、伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国へと流罪されました。
この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために、藤原良房が摂政となり朝廷の全権を把握する事になりました。伴氏・紀氏の有力官人が排斥され、藤原氏の勢力を拡大することに成功したわけです。左大臣・源信、そして藤原氏の勢力削減を図った伴善男でしたが、結果としては自らが伴氏失脚へと導くこととなったのです。
このため、藤原氏による伴氏追い落としのための陰謀とする見方が一般的ですが、実は伴中庸の独断による犯行であり、父である善男は無関係であったが、清和天皇によって善男も同罪とされたのではないか、という説もあるそうです。
「応天の門」がこのあたりをどう描いていくのか、楽しみです!
登場人物の生まれ年一覧
主な登場人物の生年です。生まれ年の不明な人物も多いので推定年齢も含みます(特に女性の場合)、その点ご了承ください。物語の設定が恐らく863年あたりから始まっているかと思われます。なぜなら藤原多美子入内の年が864年正月27日と記録されているので。それに基づいて、863年時の年齢を割り出しています。
804年 | 藤原良房 | 59歳 |
810年 | 源信 | 53歳 |
811年 | 伴善男 | 52歳 |
812年 | 菅原是善 | 51歳 |
813年 | 藤原良相 | 50歳 |
822年 | 源融 | 41歳 |
825年 | 在原業平 | 38歳 |
828年 | 島田忠臣 | 35歳 |
829年 | 藤原明子(染殿) | 34歳 |
836年 | 藤原基経・藤原常行 | 28歳 |
837年 | 橘広相 | 26歳 |
840年 | 白梅(創作上の人物) | 23歳 |
842年 | 藤原高子 | 21歳 |
845年 | 菅原道真・紀長谷雄・源能有 | 18歳 |
848年? | 伊勢斎宮恬子内親王 | 15歳 |
850年 | 清和天皇 | 13歳 |
851年? | 島田宣来子 | 12歳 |
852年? | 藤原多美子 | 11歳 |
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