陰陽師・安倍晴明

陰陽師

物語の中では、眉目秀麗の三十代半ばあたりの男盛りに描かれることが多い安倍晴明ですが、史実上に残されている記述とは異なった姿となっています。では、そもそもどういった人物だったのでしょうか?

安倍晴明の出自

安倍晴明、通常は あべのせいめい と読むこの名前自体、本当にそう読まれていたのかは不確かです。はるあき/はるあきら と読まれていたのかも。そのくらい安倍晴明の出自は、確かな記録として残っていないのです。それ故に、数々の逸話を生んだのかも知れません。

生まれたのは延喜21年(921年)とされていますが、阿部氏系図などには大膳大夫・阿倍益材(あべのますき)、あるいは淡路守・阿倍春材の子とされています。また、各種の史書には右大臣阿部御主人、講談本の説話では阿部仲麻呂の子孫とする説など、さまざまです。

生まれた土地は摂津国・阿倍野(現・大阪市阿倍野)という説と、奈良県桜井市安部とする説があります。幼少期についての記録はほとんどなく、陰陽師加茂忠行・保憲親子に陰陽道を学び、天文道を学んだとされています。

安倍晴明の逸話

幼少期の逸話としては、「今昔物語 巻24-16」のなかに「安倍晴明、忠行に従ひて道を習ふ語」という記述があります。「晴明が幼少の頃、加茂忠行の夜行に供をしている時、夜道に怖ろしい百鬼夜行の姿を見て忠行に知らせた。忠行は晴明が優れた才能を持つことを悟り、陰陽道のすべてを教え込んだ」と。

安倍清明の陰陽道における天賦の才は、幼少期から加茂忠行のもとでの厳しい修業により、大きく花開くことになったのですが…。しかし清明の官位自体は依然低く、40歳で天文得業生という陰陽寮の学生に過ぎなかったのです。

ですがこの頃、村上天皇から占いを命じられており、出世は遅れていましたが、彼の才能はすでに認められていたようです。この頃の逸話も、やはり「今昔物語巻24-16」の中に、忠行没後、土御門通りに住んでいた清明のもとに、播磨の陰陽法師が清明の腕試しにやってきて、負ける話がありますが、この時「当代一の陰陽師」と清明のことを述べています。

また、同じ今昔物語の中に、広沢の寛朝僧正を訪ねた清明に、貴族や僧たちが術を見せろと頼み、柳の葉で蛙をつぶして見せた逸話も残っています。その時清明は「殺すことは出来ても、生き返らすことは出来ぬ。殺生の罪を犯す無益なことはしない」と語っています。式神を自由に使っていたという逸話もあり、このあたりが夢枕獏の「陰陽師」設定の年齢に近いかも知れません。

50歳ごろに、ようやく天文博士に任じられ、加茂保憲が亡くなった後、陰陽道で頭角を現します。59歳の晴明は当時の皇太子師貞親王(後の花山天皇)の命で、那智山の天狗を封じる儀式を執り行いました。花山天皇と清明との間には、個人的な交流があったと言われており、花山天皇が悩まされていた頭痛の元凶を生命が取り除いた話や、「大鏡上巻」には、藤原兼家・道兼親子に騙され、内裏を抜け出し出家に向かう花山天皇の動きを察知した清明の逸話が残っています。

花山天皇

エリート陰陽師のように思われている安倍晴明ですが、実は六十余歳になるまで栄達の条件を満たすことは出来なかったのです。さらに晴明の活躍ぶりが顕著になるのは、六十代以降、一条天皇が即位し、天皇の外戚となった藤原兼家と、その長男である道長が権力を掌中にいれた頃からです。

こうして晴明は、村上天皇や花山天皇、そして一条天皇や藤原道長などの信頼を得て、主計権助、左京権大夫、播磨守などの官職を歴任し、位階も従四位下にまで昇りました。これは、彼が一条朝の権力圏の内部にいたことを意味しています。道長に重用されたことは「御堂関白記」などに記されています。

60歳ころから84歳で亡くなるまでの二十数年の間、清明は陰陽道の位階第一の上首としての地位を保ちました。八十歳を過ぎても現役で、没年まで精力的な活動を続けたそうです。「小右記」によれば、清明72歳の折に、禊によって一条天皇の病をたちどころに鎮めたという説話があり、「御堂関白記」には清明の雨乞いにより、雨が降り一条天皇が褒美を与えたとありますが、この時清明は83歳でした。彼が亡くなって間もなく、陰陽師・安倍晴明の名は物語や説話に現れ、後世長く記憶されることになるのです。


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