漫画【応天の門】では島田忠臣は藤原基経の懐刀として、基経の権力抗争のダークな面を支えています。モリアーティのモラン大佐?その反面、藤原道真の良き兄弟子であり、師であろうとしていますよね。娘・宣来子を愛し、道真との幸せを心から願っている優しい父でもあります。その複雑な人物像に注目してみました。
島田忠臣とは?
祖父の島田清田は、尾張国の地方豪族から、大学寮を出て学者・官僚として活躍、朝臣(貴族)となり、従五位上・伊賀守に昇り、『日本後紀』の編纂者の1人に加えられた立志伝中の人物。つまり豪族から貴族へとなったわけですね。
828年生まれですが、父母の名前は不明です。
文章博士・菅原是清に師事し、849年頃省試に及第して文章生となりました(21歳)。
是善はその漢詩を高く評価して、その才を愛したと言われています。その後、忠臣は是善の願いによって嫡男・菅原道真の教育係となり、『菅家文草』に道真が11歳の時に忠臣に漢詩を習い、初めて漢詩を作ったと記されています。29話~30話(6巻) 856年、忠臣28歳の頃です。
やがて、従七位下・越前権少掾に叙任される。859年、越前国の海岸に渤海使が漂着した折に、属文に優れていたことを理由に忠臣はその接客使となり副使・周元伯と漢詩の唱和を命ぜられています。
860年頃より藤原基経の近習となりました。
基経と忠臣との関係は主従関係に留まらず、二人の間に取り交わされた漢詩で相手の詩に対する次韻が行なわれていることや、『菅家文草』によれば、882年に亡くなった忠臣の弟の死に対して、基経が秋の露にあった草の如くうち萎れて傷心していることなどから、個人的にも親密な間柄であったと思われます。
また、忠臣の大伯母(祖祖父・島田村作の娘)が藤原冬嗣の室となって藤原良仁を儲けたりしており、もともと藤原北家との繋がりがあったようです。
少外記を経て、869年、従五位下・因幡権介に叙任され、873年頃には大宰少弐に任ぜられるなど、878年まで(清和朝後半から陽成朝初頭)地方官を務めました。869年は藤原高子が貞明親王(後の陽成天皇)を出産した年です。
879年、従五位上に昇叙され、再び883年の春に美濃介として再度地方官になっています。既にこの頃、忠臣は健康に優れない状態にあったが任地に赴きました。同年4月に渤海からの使者が来日した折、式部少輔として応対にあたっていた道真の推挙で、急遽平安京に呼び戻されて応対にあたっています。
886年春に任期を終えて帰京し、889年には典薬頭に任ぜられました。892年)七夕宴で詩を賦したのを最後に公式の場に出席することはなくなり、同年8月頃に亡くなったようです。享年65歳でした。
【応天の門】で、島田忠臣が関わった事件
染殿
染殿・藤原明子は基経の義父・藤原良房の娘、清和天皇の生母ですが、幽閉の身となっています。うつ病を患っていたとも言われる染殿、それが表に出て一番困るのは父である、太政大臣良房。そしてその後釜を狙う、基経。
染殿の病が知られぬよう幽閉し、暴走しないように抑え込んでおく、そのためには媚薬を使い、性の虜とするべく若く美しい僧侶たちを使い、染殿の意識を混濁したままにしています。
恐らく、この媚薬は忠臣が調合したもの?
百鬼夜行
禁制の毒薬を都へ持ち込むために編み出された百鬼夜行、正体は藤原家子飼いのいわゆる外人傭兵隊でした。異国の言葉を操り、彼らの指揮を執っていたのが忠臣でした。
やがてこの時に藤原の屋敷に持ち込まれた毒薬が、次の事件へと発展します。
伴善男毒殺未遂
藤原北家の権力の権力盤石なものにするためには、染殿(皇母)と清和天皇という組み合わせだけでは足りない、藤原高子を入内させ、一刻も早く清和天皇の皇子を産ませること、それは必須条件でした。
そして他氏排斥。伴家を排斥し、そして源氏の勢力を削ぐ、そのための策が伴善男毒殺でした。しかしこれは道真の解毒によって未遂として終わります。むろん、この時実行役を務めさせられた女官は口封じのため殺害されました。
この時に使われた毒こそが、百鬼夜行によって都に持ち込まれ、そして薬帳には載っていないから、薬師には何の毒かはわからないという忠臣がお墨付きを出したもの。強い毒だが調整すれば、疫病のような症状で死に至る、つまり成功すれば、伴大納言は流行り病で急逝として処理される段取りだったのです。
二の膳にも毒が仕込まれていましたが、途中で矢が射込まれたことで、この計画は失敗。
この時、伴大納言の息子・中庸が菅家を訪れたが追い返され、後で文章生がひとり伴家に行ったと聞き、忠臣は菅家に迷惑がかかるのではないかと恐れます…。まぁ、幸いというか、この時は基経はまだ道真を知らず、彼の目から逃れえたのですが。
この時、お前を軽んじた是清にも毒を使ってみたかったかと揶揄されています。
藤原多美子毒殺未遂
高子姫入内をさしおき抜け駆けされた多美子姫入内の話は、藤原良房・基経にとって寝耳に水の話。良房・基経親子は多美子へと魔の手を伸ばします。
今度は弟を人質として取られた女官が、多美子の膳に毒をし込む作戦。
これも偶然、白梅が女官にぶつかって膳がひっくり返り、それを食べた鼠が即死したことで発覚。多美子毒殺は未遂に終わりました。
多美子姫襲撃未遂
毒殺が未遂に終わったからと言って、それで諦めるような基経ではありません。次は物の怪を使う、つまり子飼いの傭兵部隊を百鬼夜行と見せかけ、多美子姫の行列を襲撃する計画でした。
襲撃されるのを想定しての道真の策に、まんまとハマった形でしたが、この時は突然乱入した紀豊城のお陰で、多美子姫の行列と百鬼夜行の行列が混乱し、襲撃は失敗に終わりました。
やはりこの時、傭兵部隊を指揮していたのは牛車に乗った忠臣でした。
馬頭鬼
都で剣を狙う「馬頭鬼(ばずき)」が現れ、どうやら百鬼夜行の一味のようだというので、道真が囮となって捕らえるのですが、それは奴隷として売られ、渤海使と共に日本に渡って来た回鶻(ウイグル)人でした。
彼は多美子姫襲撃の際に落とした回鶻の刀の鞘を探すため、藤原の隠れ屋敷から逃げ都に出没。秘密が漏れることを恐れた基経に命じられ、忠臣が追跡していたのです。
道真が「政に利用させたくない」という思いから逃がしたこの男は、やがて忠臣が指揮する殺人集団に襲われ殺害されてしまいます。
この時、男が何語を話すのかが理解できなかった道真は、渤海使を務めた忠臣なら何か知っているかも、しかし巻き込むわけにはいかないと考えていたのですが…。
師として
菅原是善にその際を高く評価された忠臣は、嫡男・菅原道真の教育係となりました。そして、阿呼(道真の幼名)の許嫁として4歳の娘・宣来子をと望まれ、後継者として菅家廊下を任せたいと言われます。
忠臣は幼い阿呼の才には及ばぬことを悟り、後継者となることを断った際に、是善に「気にするな。代わりのものは他にもいる」と言われた言葉を曲解してしまい、自分も門人の一人にすぎない、自分の代わりなど他にもいるのだ、という事に傷ついてしまったのでした。
そして幼い阿呼が「私は唐に行きたい」と、将来の夢を語るのを聞き、すでに自分とは次元が違うことを否応なく思い知ることに。第6話
その後、忠臣は基経に仕えることとなり、菅家から離れますが、道真の許嫁・宣来子の父として、また兄弟子であり師として関わりは続きます。
道真が基経の目に留まることのないよう、隠してきていたのに、やはり才ある者は自ずと現れるということか、道真は基経にその才を見込まれていくことになります。
史実としては、藤原基経は道真の文才を高く評価しており、父・菅原是善を差し置いて、度々代筆を道真に依頼していたそうです。
父として
道真の許嫁となった宣来子は4歳と忠臣が言っていますから、道真が9歳の時ですね。自分が菅家廊下の後継者の座を断った時も、その約束は反故にされることはなく、忠臣はほっとしてましたね。
宣来子が早く妻となりたがるのを宥めつつ『道真はお前のことをちゃんと考えているよ』と伝えようとしたり。道真と宣来子のことをとても案じている、良き父でもあります。
ですから自分の正体が道真に知られることを、ひどく恐れているわけですが…。この先、どうなっていくのでしょう?
道真はというと、867年に得業生に合格(道真22歳・宣来子17歳)とあるので、ここで宣来子と結婚もできたはずですが、実際に宣来子が妻となったのは875年(道真30歳・宣来子25歳)だとか。当時としても遅いですよね。
深読み
基経の懐刀として徴用されていたらしき忠臣ですが、869年~878年まで地方官として赴任しています。
869年は高子が貞明親王(後の陽成天皇)を出産、872年には藤原良房が亡くなり、基経が右大臣となります。876年には陽成天皇が即位。つまり、藤原北家の繁栄はゆるぎないものとなっており、ダークな面を隠す意味合いもあって、忠臣は地方に?なんて深読みしてみました。
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