【応天の門】の11巻に登場する源能有とは、どんな人物でしょう? 道真と同じ18歳、宮中での再会を期した能有、本当に大器晩成?最後は右大臣にまで官位を進めました。
先帝・文徳天皇の皇子
第55代天皇・文徳天皇が父、母は伴氏としか分かっていません。11巻58話の中で能有自身が語っているところでは「先帝には女御が8人、更衣、宮人に至っては数知れず」との事。能有の母は身分が低かったので、彼は皇位継承からは早い段階で外されました。
文徳天皇は何と31歳の若さで亡くなっています。その時、能有は13歳でした。
文徳天皇は更衣・紀静子の産んだ第一皇子・惟喬親王を寵愛しており東宮にしたかったのですが、藤原良房の娘・明子が惟仁親王を産むと、その圧力で惟仁を皇太子とせざるを得ませんでした。惟仁親王(後の清和天皇)はわずか8か月で、他の兄3人を押しのけて立太子したのです。
臣籍降下
第一親等の皇族でありながらも853年、8歳の時に時有・本有・載有ら兄弟と共に源姓を与えられ臣籍降下しました。能有の多くの兄弟がこれと同様の道をたどり、その子孫は後に文徳源氏と呼ばれるようになりました。
兄の惟喬親王は、父の寵愛を受けていたために皇位継承の争いで命まで狙われたらしい、と能有は道真に語っています。良房ならやりかねませんよね。ちなみに業平は惟喬親王と仲が良かったそうです。
夫人たち
椿の精の策を練ったのは、藤原慈子。能有18歳の設定で既に3人目の子を身籠っていますが、上昇志向が強く「これからは女の時代」とばかり、娘を増やそうと自分の女官たちに夫の子を産ませようとする、すごい策。
後には藤原基経の信頼も厚く、その娘も娶っています。子供は10人と多かったようですが、娘は3人だけだったようです。慈子との間に生まれた源厳子は、清和天皇に入内し温明殿女御になっています。
そして残る二人の娘ですが、昭子は藤原忠平の妻として師輔らを産み、同じく柄子は貞純親王の妻となって源経基を産んでいます。即ち、師輔以降の藤原摂関家と、経基以降の清和源氏という二つの大族に、その血統を伝えたことになり、慈子の娘大作戦は大変な成功を納めたわけです。
官位
862年に従四位、応天門の変の866年辺りから政に関わるようになり、28歳で早くも参議になっています。道真と逢ってから約10年後です。徐々に中央官界において頭角を顕し、弟の清和天皇それに続く陽成天皇の治世をよくたすけ、その能力は藤原基経からも評価されたそうです。
882年に中納言、正しく道真に語った「20年後に生き延びていれば」ですね。続く宇多天皇の信頼も厚く、大納言、そして最後は右大臣になっています。
人物像
一言でいえば「能ある鷹は爪を隠す」で生き延びようとしていますよね、この物語の設定では。実際、朝廷の儀礼や政務に通じた有能な人物だったそうです。
大らかな人柄として描かれていて、道真とは親交が深かったようで、道真の詩文集『菅家文章』には能有に頼まれて自宅の竹を能有邸に移植した時の漢詩や、亡くなった際の能有追悼の漢詩が収録されています。また宇多天皇も彼を失ったショックを書き残しています。好き嫌いの激しい道真と仲が良かったというのですから、穏やかで信頼に足りる人物だったのでしょう。
勅撰歌人として、『古今和歌集』に3首、勅撰和歌集に4首が採られています。

源能有様が登場したのは11巻よ!
私、結構この方好き!

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